「哲学者と人類学者の間で交わされる「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。
もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命と言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか? もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。」
晶文社HPより
哲学者の宮野真生子さんと人類学者の磯野真穂さんとの間で交わされる書簡集。
宮野さんはstageⅣ乳がんに罹患されており、前半は特に医療にまつわる様々なテーマが、後半は死と生についてそれぞれ専門家としてのレンズを通して語られていきます。
腫瘍内科医としても日々の臨床を再度考え直させられる一冊でした。
かもしれない、を前提に進められる<弱い>運命論は便利だなあ、と思います。
だって、宮野さんが元気に京都に帰れたら、何も起きなくて幸運だったと言えるし、何かあったら、「そんな身体でなんて選択をしたのだ。リスクをもっと考えるべきだった」と言えるから。
でもそういうことを言う人たちは、いくつもの<かもしれない>に取り囲まれ、
その<かもしれない>と具体的に織り合わされることがどういうことか想像がつかず、それでもなお「意思に基づいた選択」を迫られる人たちの混乱には思いが行き届いていないのではないか。
過去のパターナリズムからインフォームド・コンセント、そしてShared Decision Making(SDM)へ。
基本的に現代医療のエビデンスは統計によって成り立っており、あくまで確率の枠組みでしか考えられない。
しかし実際には、臨床は常にn=1であり、目の前の患者さんは統計では除外される外れ値<かもしれない>。
もちろんそれ自体はEBMの中に組み込まれており、エビデンスを吟味した後で、患者の価値観を踏まえた「患者への適応」を行うことはEBMのステップの一つである。
ただ、そうして抽出した情報をどう伝えるか、EBMの中には含まれていない要素ではあるが、
これも内容と同じ程度、場合によってはそれ以上に重要なのではないか。
目の前の患者さんに合わせて、どのタイミングで、どう伝えるか、
高度なアートが求められ、かつ臨床において実に難しい(が教えられない)ステップだと思う。
でも、この患者さんは、「この白血球の数値では感染症の危険がありますね」と注意をされ、
「熱が三八度以上出たら、必ず病院にすぐ連絡してくださいね」と念押しされているのかもしれません。旅行に行くなんてとんでもない! なにかあったらどうするんだとご自身で色々なことを我慢されているのでしょう。私もかつてそうでした。
恐らくこうした説明は日常的によくなされているのだろう。
もちろん内容自体は重要なことであるし、伝えるべき内容に違いはないだろう。
ただ、やはりこれも伝え方の問題であって、医療者の伝え方によって、行動を縛っていないか、
慎重に言葉を紡いでいく必要を痛感した一節であった。
医療人類学の祖の一人であるアーサー・クラインマンは、人が心身の不調を抱え、それを乗り越えようとするとき、私たちは三つのセクターをめぐると話しました。
(中略)
いくつかの代替療法に時間とお金といのちを注がないためには、決定疲れした患者さんに成り代わり、ある程度の方向性を医師が決められること、そしてたとえそれが最善の方向に行かなかったとしても、医師一人が責任を担わなくて済むこと、そんな仕組みが必要な気がします。
アーサー・クラインマンによるヘルスケア・システム、民間・専門・民族の3つのセクター理論が紹介される。
本文では「先生の家族だったらどうしますか」という患者家族からの質問が契機となるが、
医療者は専門セクターに属する訳ではあるが、眼前の患者と接する際にはコミュニケーションを通じて
民間セクターの輪に入るという点はとても腑に落ちた。
もちろん症例提示などには具象性を除いた顔のない「症例」となる訳ではあるが、
コミュニケーションを行う以上、専門セクターだけに居るわけではない、という点は常に自覚するべきだ。
また医療者に対する訴訟のリスクについても踏み込んで述べられているが、
防衛的医療において、同意書には無数の<かもしれない>が羅列され、患者は不必要なリスクに取り囲まれていく。
思考実験ではあるが、リスクフリーの状態で医療はどう変わるだろうか。
羅列されるリスクとベネフィットを天秤にかけた理知的な判断を患者に押し付けるのではなく、
そうした専門的な判断はあくまで医療者が担い、信頼する医療者から提案される治療法を選ぶ。
ACPにおける議論と同じく、個別の処置を提示して選ばせるのではなく、価値観をもとに医療者が最善と思うものを提示する。
また書簡は回を重ねていき、後半ではそれぞれの出会いややり取りを通じ、
2人の専門である哲学・医療人類学を通じて新たな発見が紡ぎ出されていく。
書簡本という斬新さもあり、第3者視点で読者は読み進めていくが、不思議と引き込まれていく。
ただ書簡とはいえ、専門性に裏打ちされた言葉を咀嚼していくのは容易ではない。
あまりにも美しい言葉たち。終わりに向かうにつれてひとは始まりを見いだせるのか。
コメント